復帰後、初映画評はずっと見たかった「ぼくたちの哲学教室」についてです。

北アイルランド、ベルファストにあるホーリークロス男子小学校を扱うドキュメンタリーですが、
原題は「Young Plato(ヤング・プラトン)」。邦題も良いですが、原題も粋で好きです。
「ぼくたちの哲学教室」のあらすじ
北アイルランドの小学校で、校長先生が子どもたちとともに取り組む特別な授業「哲学教室」。
死や正義、友情といった大きなテーマをめぐって、子どもたちは自由に意見を交わし、ときに沈黙を共有します。戦争や分断の記憶が残る地域で育つ彼らの言葉と表情を、カメラが静かに見つめ続けるドキュメンタリーです。
「ぼくたちの哲学教室」の感想
比較することは、解釈の役に立つ。
ということで、日本の学校の様子をドキュメンタリーとして扱った「小学校〜それは小さな社会」と比較してこの映画を解釈したいと思います。
「小学校〜それは小さな社会」のあらすじと感想を知りたい方は是非以下記事からご覧ください。
「ぼくたちの哲学教室」「小学校〜それは小さな社会」比較
映画を通して感じた教育、教員のあり方の違いをピックアップしたいと思います。
教員(大人)と子どもの関係性
最初に感じる違いが、教員(大人)と子どもの関係性についてです。
「小学校〜それは小さな社会」の日本の教員も、「ぼくたちの哲学教室」のアイルランドの教員も、それぞれ子どものことを想い、誠心誠意向き合っている姿が描かれていました。
しかし、
日本の教員の向き合い方は”上下”、”指導”といった言葉で表現されるような関係性である一方で、
アイルランドの校長、カウンセラー(かな?)は”対等”、”対話”といったフラットな関係性。
そこに大きな差を感じさせます。
教員の姿勢
“上下”、”指導”をする日本の「教員」は、”正しく”あろうとしなければなりません。
“対等”、”対話”をするアイルランドの「教員」は、”多様な意見を受け入れる”ことが求められます。
“正しく”あろうとすることと、”多様な意見を受け入れる”ことは、ある意味で相反する姿勢ともいえるのではないでしょうか。
生身か、演じるか
人間、常に”正しく”あることなどできるのでしょうか。
それこそ、「ぼくたちの哲学教室」の哲学のテーマとして取り上げられる問いの数々は、正解が無い問題です。
さらに、社会で起きること、学校で起きることも多くは複雑で、絶対的な正解などありません。
常に”正しく”あるというのは、とても不自然な姿勢であるように感じます。
常に”正しく”あろうとしたとき、教員の方々は生身の自分ではなく、
教員を”演じる”必要性が出てくるのでは無いでしょうか。
「ぼくたちの哲学教室」の好きなセリフ/シーン
印象に残っているのが、校長が「家庭訪問」や「保護者への哲学教室」、「子どもとともに保護者と対話する方法を考える」といった場面にも関わっている点です。
「そこまでやるのか!」、「校長はそんな時間ないだろう」など、もちろん仕事の範囲という論点はあるのですが、
学校が家庭教育にも関与するのは、この学校ならではなのか、アイルランドならではなのかわかりませんが、凄いことだなあと思いました。
子どもが生まれた瞬間”親”となる私たちは、教育や対話についての知識は大抵ありません。
そのときに、学校、校長、教員が家庭教育までサポートしてくださるのは、心強いことではないでしょうか。
(家庭の教育にまで口を出さないで欲しい、という意見ももちろんあるかと思いますが。)
おわりに
「哲学教室」、うらやましいな〜と思いながら終始見ていました。
というのも、自分の学生生活を遡ったときに、
「答えのない問い」に取り組んだ記憶がほとんど無いのです。
みんなで意見を出し合い、対等に話し合う機会、あったら楽しかっただろうなあと。
学校で多様な意見に触れる機会があることはもちろん素晴らしいですが、
本作を見て、こうした取り組みは家庭でも取り入れられることなのではと感じました。
将来、ぜひ参考にしたいと思います。


