今回は現在上映中のドイツ映画、
「ありふれた教室」について。
観るものの[倫理観]が試される、破格の映画体験 –
驚愕のラスト、あなたは何を見出すのか -?
上記キャッチコピーに誘われて、観に行ってまいりましたので、感想のご共有です。
(※ネタバレありです)
「ありふれた教室」の映画情報
日本での上映回数・映画館こそ少ないですが、
・2023ベルリン国際映画祭(パノラマ部門) 2冠(C.I.C.A.E. Award、Label Europa Cinemas)
・2023ドイツ映画賞 主要5部門受賞(作品賞・主演女優賞・監督賞・脚本賞・編集賞)
等、世界の映画祭を席巻した話題作です。
日本では2024年5月17日より上映を開始し、現在は31の映画館で上映しております。
気になる方は映画館へお急ぎください!
「ありふれた教室」のあらすじ
あらすじは公式HPのものを抜粋します!
仕事熱心で正義感の強い若手教師のカーラは、新たに赴任した中学校で1年生のクラスを受け持ち、同僚や生徒の信頼を獲得しつつあった。そんなある日、校内で相次ぐ盗難事件の犯人として教え子が疑われる。校長らの強引な調査に反発したカーラは、独自の犯人探しを開始。するとカーラが職員室に仕掛けた隠し撮りの動画には、ある人物が盗みを働く瞬間が記録されていた。やがて盗難事件をめぐるカーラや学校側の対応は噂となって広まり、保護者の猛烈な批判、生徒の反乱、同僚教師との対立を招いてしまう。カーラは、後戻りできない孤立無援の窮地に陥っていくのだった….。
引用:公式HP
「ありふれた教室」の感想
観終わった後は、しばらく脳が働かない感覚に陥りました・・・。
何の影響かと言いますと、
終始”緊張”を強いられる、学校の”空気感”です。
「スリラー映画」というジャンル名がついていたのですが、
まさに。
しかし、何が怖いか?でいくと、(ネタバレになりますが)
殺傷事件など、そんなおどろおどろしいものは出てこない。
ただの、まさに、「ありふれた教室」。
にも関わらず、怖い。その事実が怖い。
ということで、以下でもう少しこの”緊張感”について解釈していきたいと思います。
“緊張感”の正体について
99分の映画なのですが、99分間ずっとハラハラします。
この緊張感は何なのだろう?と考えた時に、私の中では
学校の「”間違うこと”が許されない空気感」が一つ思い当たりました。
後に教師、生徒、保護者、学校全体を巻き込むことになる火種は、
ほんの些細な、新人教師の”正義感”とも言える生徒への想いです。
しかし、その方法を“少し間違えた”、だけで一人の人生を変えるほどの事態になります。
その、”少し間違えた”だけで取り返しのつかないことになるのは、
教師だけではありません。
そう、私が観ながら改めて考えなくてはならない、と感じたことは
この空気感は何も主人公の教師だけのものではないだろうということ。
空気感とは共有されるもの、その場全体で醸成されるものである為、
ちょっと強気な他の先生、学校のルールをひたすらに遵守しようとする校長先生も、
そして何より、子どもたちも。
その場にいる全ての人が”許されない”緊張感を感じているであろう、
ということを忘れてはいけないように思いました。
“不寛容(ゼロトレランス)”について
上記“少し間違えた”だけ、の“間違えた”を強調しましたが、ここにも怖さが存在します。
映画のストーリーの結果から判断すると、新人教師の「子どもたちを守る為に、自ら職員室を隠し撮りし、犯人を見つけ、校長に共有した。」という行動は”間違えた”行動に見えます。
しかし一体、どこの部分が“間違い”だったのでしょうか?
映画内では、次々と発生する”問題”に対して、学校、教師、生徒、保護者、
それぞれの人たちがそれぞれの”正義”でもって行動を起こしていきます。
その度に私は誰に感情移入して良いのか?(ある意味でそれぞれの立場を追体験しながら)
ずっと、「どうすれば良いんだ?」「どの対応が正しいんだ?」を考えていました。
その結果、映画を観終わったあと、ただ「いや、わかんない…」という感想が残りました。
それこそがこの映画で言いたいことの1つでもあるように感じるのですが、
あらゆる問題への対応に対して、「正しい・間違っている」を決めるのは本当に、難しい。
倫理観や道徳性は時代によっても立場によっても変わっていく。
その中で、本学校が拠り所にしていた「不寛容(ゼロトレランス)」主義。
不寛容(ゼロトレランス)とは
軽微な規律違反であっても寛容せず、厳しく罰することで、より重大な違反を未然に防ごうとするもの。
引用:Weblio
「正しい・間違っている」を決めることが難しい世界で、
「不寛容(ゼロトレランス)」だけは良くないのではないか?ということを私は感想として持ちました。
多くのことはグレーで、都度都度あらゆる角度で考えて、
柔軟に対応を考えていかなくてはいけないのではないか。
「不寛容(ゼロトレランス)」に準拠した瞬間に、わかりあうことはできず、
“ちょっと間違えただけで取り返しのつかないことになる”、あの緊張感が充満するのではないか。
「ありふれた教室」の好きなセリフ
“好きな”とはちょっと違うのですが、
映画の中で都度場面に応じて自然に出てくる、
主題に沿ったセリフやキャッチコピーの巧みさが好きでした。
- 映画の冒頭、数学の授業で証明を行う際、主人公のカーラが生徒に問うセリフ
それは証明なの?主張なの?
- 生徒たちによる”教師批判”の学校新聞発刊時、横断幕に記載されたメッセージ
正義は必ず勝つ
皮肉が効いています…!
「ありふれた教室」の好きなシーン
最後の2コマですね。
1つが、最後のシーンの1つ手前。
“間違いを犯した”生徒に対して、学校は出席停止の命を下す。
それでも生徒は反発し、教室へ登校する。
カーラは生徒を守る為に、別の教室に移動し、中から鍵を締め、校長、他の教師からの干渉されないようにする。
カーラと生徒、二人だけの教室で、何か話かけることもなく、ただ隣にいる。
数時間の沈黙の後、生徒は以前カーラから渡された「ルービックキューブ」を全面揃えた状態で手渡す。
生徒のことを想うカーラの気持ちが通じたとほのかに感じられる、
一瞬だけ希望の光が見えたシーンのように思いました。
しかし。
2つ目が、その次のシーンです。
突然にカメラが切り替わり、荘厳な音楽が流れ、
椅子に座ったままの生徒を警察官二人が担ぎ上げ、
まるで「王様の行進」かのような雰囲気で、強制的に連行されます。
不寛容(ゼロトレランス)主義のもと、希望の光が一瞬ににしてはかなく消える瞬間。
しかしそれは不寛容(ゼロトレランス)主義に敗北した惨めなものではなく、
不寛容(ゼロトレランス)主義に屈することのない強い姿勢を(皮肉を交えながら)示すもののように思えました。
おわりに
きっと日本の学校でも似たような状態はそこかしこで起きているのだと思います。
(程度の差はあれ、この独特な”緊張感”は多くの学校に共通して存在しているのではないでしょうか)
その意味では、ずっとこの緊張感の中現場に立たれながらも、生徒に真摯に向き合われている教師の方々には頭が上がりませんし、子どもや保護者の方々の苦悩にも共感します。
また、映画の広告では
社会の縮図である学校の<不都合な真実>を抉り出す脅威の問題作
と謳われており、この空気感は学校に限らない、社会全体を包み込んでいるものであると示唆されます。
知らず知らずのうちに、この息苦しい”緊張感”にのまれるのではなく、
まずはそこに気づき、少しでも脱する、もしくは空気を変える、意識・行動を
自分の身の回りからでもしていきたい、と思わされた映画体験でした。