【映画評】百万円と苦虫女 – 自分自身と向き合うこと、とは

映画評

2008年なのでかなり前の映画になるのですが、
蒼井優さん見たさで「100万円と苦虫女」を今更ながら見ました!

ので、この感覚を忘れないように、文字にしておきます。

(※ネタバレありです)

前科持ちの女の子が決めた一つのルール。

「100万円貯まったら街を出る」

街を移り行き、さまざまな人と出会い、感じることで自分自身について考える、青春ロードムービー。

 

「百万円と苦虫女」の感想

設定の面白さと、蒼井優さんの演技の魅力で、(一部見ているだけでも辛いシーンもありますが)
心地良い時間に浸ることができる映画でした。

 

その性格、その環境にいる、その人が醸し出すであろう雰囲気まで醸成してしまう演技力に脱帽。

さらに、海の家、桃の農家、ホームセンターと変化していく鮮やかな環境が、

俳優さん方のわざとらしくない演技と相まって、その世界観に没入させていただきました。

なんかよくわからないけれど、仕事を終えて、鈴子が自分の部屋で
大の字になる瞬間、好きだったなあ・・。

臨床心理学を学んでいる人間として弟の描写については思うことはいろいろありますが…。
その点については以下の「臨床心理学の観点から」で少し記載できればと思います。

 

「百万円と苦虫女」の好きなシーン / セリフ

蒼井優さん演じる鈴子が、はじめて「100万円貯めて移り住むルール」について
森山未來さん演じる中島亮平さんに対して伝えた後の会話。

 

「自分探しみたいなことですか?」

「いや、寧ろ探したくないんです。どうやったって、自分の行動で自分は生きていかなくてはいけないですから。探さなくたって、いやでもここにいますから。逃げてるんです。」

 

主人公の鈴子にとって「100万円貯めて移り住む」ことは、寧ろ「逃亡」でした。

長く居座ると嫌でも周囲の人との関係性ができてしまう。

上手く関わらなければいけないけれど、そうできない自分。

もどかしさなのか罪悪感なのか、そんな思考や感情を、場所を変えることでリセットする、

そんなイメージでしょうか?

ということで少し、本映画の主題でもある「自分探し」についてもう少し考えてみたいと思います。

 

「自分探し」について考える

色々な場所に旅する「自分探し」、一時期流行りましたよね。
旅すること、がなぜ自分探しなのでしょうか?

 

旅することが自分探しになる理由

❶日常生活の中では、日々の生活に忙殺され「自分(考えていること、向き合っていること)」
向き合えない?ため、日々の生活から距離を置くために旅に出る?

❷日常生活の自分は環境にあわせており、“本当の自分”ではないように感じらるため、
“本当の自分”を探すために、旅に出る?

パッと思い浮かぶところでいくと上記のような理由でしょうか?
是非他の仮説があれば教えていただきたいです。

 

❶については、必ずしも旅に出なくても、「自分(考えていること、向き合っていること)」について考える時間があれば「自分探し」ができそうです。
(”コーチング”の時間は、その時間にもなっているように思います)

❷についてが私がやっかいだなあと感じる部分なのですが、“本当の自分”ってなんだ?ということについてです。

上記を考えるにあたっては、以下の本がとても助けになりました。

 

「分人主義」について

これまた友人から紹介され読んだのですが、臨床心理学の分野でも取り上げられる考え方です。

かいつまんで説明すると、

自分というものは他者との関係性によって変化する、それぞれの自分=「分人」によって成り、
その「分人」はどれも”本当の自分であるという考え方です。

パートナーといる時の自分、職場での自分、友人とふざけている時の自分、
それぞれ自分は少しずつ異なっているのではないでしょうか?

でもそれぞれ全て自分ですよね、という考え方です。

 

この考えに基づくと、
もし❷の

日常生活の自分は環境にあわせており、“本当の自分”ではないように感じらるため、
“本当の自分”を探すために、旅に出る?

という理由で「自分探し」をするのであれば、
それは鈴子の言う「逃亡」にあたるのかもしれないなと思いました。

少し長くなってしまいましたが、映画に付随して感じたことです。

 

「百万円と苦虫女」 臨床心理学の観点から

さて、また観点が変わりますが、「臨床心理学の観点から」ということで少し気になってしまった描写について、あくまで私の意見にはなりますが記載いたします。

理不尽な環境に向き合うことを称賛する表現は危険なのではないか、という点についてです。

 

映画内では見ているだけでも心が苦しくなるような、
主人公の弟に対するいじめの描写があります。
弟は以前姉がいじめっ子たちに立ち向かった姿を見ており、その姿に勇気づけられ
映画終盤、重要なシーンとして姉に向けた手紙の中で「自分も逃げないで、いじめっ子たちと学校に進学すること」を宣言します。その手紙を読んで、主人公である姉もまた自分の生き方を顧みて涙するシーンなのですが・・・

もし現実場面において弟があの場面にいたら、一刻も早く教師か親に相談し、学校側の環境改善、
あるいは他校への進学を考えた方が良いと思います…という現実場面のことは一旦置いておいて..

 

「いじめっ子から逃げずに向き合って勇敢だ」という映画内の描写かと思うのですが、

不条理に立ち向かうのが称賛されるべきことではないし、

不条理を避けることが情けないことでもない

と私は思います。

 

 

これ、もともと

不条理に立ち向かうのが勇敢なことではないし、

不条理を避けることが逃げでもない

って書いてみたんですが、定義見てたらいや、これは確かに勇敢だし、逃げだなと・・・。

 

goo辞書
「勇敢」・・・物事に対してひるむことなく積極的に向かって行くさま
「逃げ」・・・何かを嫌って遠ざかる

 

ただ、考えてみたい。

それ、なんか意味がありますか?と。

銃を持った人間に立ち向かうことはたしかに勇敢である
銃を持った人間の前から立ち退くことは逃げである

 

どっちを選択しますか?

 

銃を持った人間に勇敢にも立ち向かって打たれたとして、一体なにが残るのだろうか?

もちろん全てはその人の選択の自由ですが、私は、私の大切な人には一目散に逃げてほしい

 

映画の主題の部分ではありませんが、どうしても気になってしまったので、
あくまで1個人の私見ですが記載させていただきました。

一つのご意見として・・・

 

おまけ

あらすじを書いている際に「ロードムービー」という文言を自分でタイプして、

あ、「ロードムービー好きかもしれない」とちょっと気づきました。

(ロードムービーとは、wikiさんによると「旅の途中で起こる様々な出来事が、映画の物語となっている映画ジャンル」のことです。)

今後ロードムービー見ていこうかな・・・・