日常的に多くの子どもたちと関わっていると、本当に多様な個性を目の当たりにし、
その際に「世界の見方が一人一人異なること」を身をもって実感します。
例えば、初めてのボードゲームを始めるとき。
口頭のルール説明で理解する子、
理解した内容を言葉で確認してくる子、
説明書を熟読して理解する子など。
理解の方法が様々で、その子ども一人一人にあった説明方法が必要になります。
その違いが起きる背景を理解したいと思い、
今回は村中直人さんの「ニューロダイバーシティの教科書」をもとに、
「ニューロダイバーシティ」という世界の捉え方について学びを深めていきます。
「ニューロダイバーシティ」とは
直訳すると「脳や神経の多様性」を指しますが、この言葉の発祥は自閉スペクトラム当事者の方のエッセイであり、そこから社会学の研究者や自閉スペクトラム当事者の方々のコミュニティにおいて広がっていったことから思想としての意味合いも含む言葉になります。
上記著書の中では、以下のように説明されています。
「脳や神経、それに由来する個人レベルでの様々な特性の違いを多様性と捉えて相互に尊重し、
それらの違いを社会の中で活かしていこう」という考えを含む言葉
「ニューロダイバーシティの教科書」 要約
「脳や神経の多様性を捉えて相互に尊重する」ってつまりどういうこと?ということについて
「ニューロダイバーシティの教科書」をもとに、
理解の促進につながった箇所を抜粋・解釈して順を追って整理します。
「障害」「才能」「個性」は事実ではなく解釈である
脳や神経、それに由来する認知の方法は一人一人異なります。
その違いは「特性」として存在し、本来その特性には「良し悪し」はありません。
しかしその「特性」が「環境」との相互作用により、さまざまな解釈がなされます。
ある特性が活かされない環境であれば「障害」に、
ある特性が活かかされる環境であれば「才能」に、
そのどちらでもない場合には「個性」に。
上記のイメージが湧くよう、自閉スペクトラムの方の「特性」を具体的に比較してみます。
自閉スペクトラムと神経学的多数派との認知、感覚の違い
では、実際どのように特性が異なるのか?
いくつかの観点から自閉スペクトラムの方と神経学的多数派と比較します。
自閉スペクトラム | 神経学的多数派 | |
注意や関心の方向性 | ヒトよりモノ | モノよりヒト |
認知の特性 | 全体よりも部分 | 部分より全体 |
知覚と感覚 | 過敏 |
注意や関心の方向性として、「ヒトよりモノ」に注意が自動的に向く特性は、
乳幼児時期には「お母さんと目線があわない」、その後は「社会性の障害」といった解釈がなされます。
しかし脳の機能の観点から見ると、自閉スペクトラム者の方も「目を見てください」と指示をされた場合に、他者の顔を認識する脳の部位が働く=機能自体に問題があるわけではない、ということが近年の研究では明らかになったようです。
このことから、自閉スペクトラム者の方と神経学的多数派の違いは、脳の障害ではなく
単に「ヒトよりもモノ」を優先するという自発性・思考性の違いという視点が生まれます。
また、「障害」ではなく「才能」と解釈される事例について挙げると、
「全体よりも部分」そして「論理的・分析」に強い認知特性は「IT」や「製造業」の分野では「才能」となり、ITの聖地シリコンバレーにおいては10人に1人は自閉スペクトラムではないかという話も存在するようです。
まずは脳や神経の働きによる「特性」と呼ばれる違いが存在し、その「特性」が「環境」との相互作用により「障害」にも「才能」にもなりうる事例をご紹介いたしました。
「特性」の差分をどう捉えるのか?
さて、ではその「特性」をどう捉えるかについてですが、
「才能」でも「障害」でも「個性」でもなく
「文化」として捉える、というのがニューロダイバーシティの視点です。
「個性的」という表現は、「他の人と違う特有の性格や性質」を指します。
例えば、海外で育った人が日本に来た場合(逆もしかり)、
その人の言動が日本のものと異なるモノだった場合に「個性的」と表現するでしょうか?
それは「文化の違いである」と捉えるかと思います。
同様に、自閉スペクトラムも上記のような脳、神経機能による違いが存在し、
自閉スペクトラムの方々の中で共通する「特性」と呼ばれる言動の傾向がある為、
それを「文化」と表現し、尊重しあうことがニューロダイバーシティの考え方です。
「ニューロダイバーシティ」に対する批判
書籍の中でも述べられていたのですが、上記の考えに対して以下のような批判も存在しております。
※一部抜粋です
- 「病気/障害ではない」と捉えることで支援に繋がりにくくなるのではないか?
「ニューロダイバーシティ」は正常と異常を定義し、治療につなげる「医学モデル」に対するアンチテーゼとして発展した背景も少なからずあることから、「ニューロダイバーシティ」の考えが浸透することで、苦しんでいる人たちの苦しさが理解されない/支援につながらないといった可能性を危惧する声があります。 - 「ニューロダイバーシティ」の考えが適用できるのは一部の範囲ではないか?
重度の知的障害の方は医療的支援が必要であるケースが多い、知的障害の伴わない自閉スペクトラム症にとってのみ有益である、といった意見も存在します。
「ニューロダイバーシティ」について 個人的な考え
ここまで、「ニューロダイバーシティ」の内容の整理とそれに対する批判をまとめました。
賛否あるなかでみなさまはどのように感じましたでしょうか?
「ニューロダイバーシティ」の考えが浸透したとして、
現代社会においては、神経学的マイノリティのみなさまが生きづらさを感じ、
医学的/社会的等、なんらかの”支援”が必要であることは変わらないかもしれません。
ただ、その“支援”の必要可否とは別文脈で
「ニューロダイバーシティ」の考え方を支持したい、ということが私の現在の意思です。
私は「ニューロダイバーシティ」の考え方は、異なる他人との共存において
「お互いの尊厳を守る」為に重要であると考えます。
なぜならば「ニューロダイバーシティ」の考え方が、特に以下2点を含むと考えるからです。
・「優れている/劣っている」「普通/異常」という物差しからの解放
・差異の背景への理解の促進(脳、神経由来の認知機能の差異に対する理解)
そして上記二点は、私が出会う全ての方々に対して持ちたい視点です。
「ニューロダイバーシティ」について 参考書籍
今回「ニューロダイバーシティの教科書」の内容をもとに、
「ニューロダイバーシティ」について考えてきました。
その中で、ニューロダイバーシティの考えの先例として「ろう文化宣言」が挙げられております。
「ろう文化宣言」とは、
“ろう者(耳の聞こえない人たち)を「聞こえない劣った存在」という視点から、「日本手話という言語を母語とする言語的少数者」であると捉え直そうとする視点です”
具体的な文化の例としては「手話には敬語という概念があまりなく、対人関係や感情表現もストレートで明確」「氏名ではなく手話ネームと呼ばれる独自の呼び名で呼びあう」等が挙げられていました!
私は上記箇所を読んだ際、ヨシタケシンスケさんの「みえるとか みえないとか」の元となった
伊藤 亜紗さんの「目の見えない人は世界をどう見ているのか」を思い出しました。
本書では、目の見えない方々の感覚・体の使い方など、
まさに優劣/普通異常なんていう物差しで表現できない、
文化と呼ぶべき「世界の認識の仕方の違い」を教えてもらえます。
とても勉強になる内容でしたので、
「ニューロダイバーシティ」について理解するためにも、そうでなくても
おすすめの一冊です!