今回ご紹介するのは、「やさしさの精神病理」です。
精神科医の大平健さんご自身が臨床の現場で担当された人々の症例をもとに
従来のやさしさと、新しい「やさしさ」の概念について迫ります。
1988年出版の為、”新しい”とは言っても”かなり昔”ではあるのですが、
現代読んでも考えさせられる内容ですのでご紹介いたします。
まるで小説のような語り口調に誘われ、あっという間に最終ページまで読み進められる一冊です。
・人に優しくしたい/人と深い関係を築きたい方
・人間関係で悩んでいる方
におすすめの本です。
「やさしさの精神病理 」の著者
著者は東京大学医学部卒業後、精神科医として聖路加国際病院に勤める傍ら、
数多くの書籍を執筆されてい大平健さんです。
今まで出版された書籍は単著のものだけでも20冊を超え、特に人気が高い作品が以下になります。
その中でも一番人気であるのが本著、「やさしさの精神病理」。
ということで、中身に入っていきます!
「やさしさの精神病理」の要約
旧来の「やさしさ」と新しい”やさしさ”について。
・電車で老人に席を譲らない”やさしさ”
・上司の前で黙り込んで返事をしない”やさしさ”
・小遣いをもらってあげる”やさしさ”
・好きでなくても結婚してあげる”やさしさ”
いかがでしょう?字面だけでも、それは果たしてやさしさなのか・・・?
と疑問が湧くかと思いますが、上記の症例をもとに”やさしさ”について迫っていく書籍となっております。
旧来の「やさしさ」と新しい”やさしさ”に共通すること
まず、その両者には以下の共通点があります。
- 「集団」との協調を目指す点
- 人々がお互いにやさしさを振り向合うことで滑らかな人間関係をとりむすぼうとする点
旧来の「やさしさ」と新しい”やさしさ”の違い
一言で言うと、以下のようにまとめることができます。
- 旧来の「やさしさ」が相手の気持ちを察すること
- 新しい”やさしさ”は相手の気持ちに立ち入らないこと
詳細をそれぞれ見ていきましょう。
旧来の「やさしさ」とは?
旧来の「やさしさ」とは以下のような特徴を持つものでした。
- 相手が自分の気持ちを察してくれ、それをわが事のように受け容れてくれる時に感じられるもの
- 自分が「やさしい」気持ちになれるのも、自分が相手と同じ心持になった時
- 双方にとって心地よいのは、自分と他人の気持のずれがなくなり、一体感が得られるから
- 傷ついた状態に対する”治療”として用いられる
- 涙歓迎、熱い想いを好む
新しい”やさしさ”とは?
一方で、新しい”やさしさ”とは以下のような特徴を持ちます。
- 人付き合いの技能
- 具体的で実践可能
- 相手の気持ちに立ち入ること、詮索することはタブー
- 傷つく前の”予防”に用いられる
- 涙お断り、熱い想いは苦手
新しい”やさしさ”がもたらすこと
新しい”やさしさ”を求めることが、苦しさにつながると作者は考えます。
そして新しい”やさしさ”を求める人々は”やさしさ”を重視するが為に、
親しい人には相談ができず精神科に相談にいくことになると分析しています。
「やさしさの精神病理」レビュー
とても興味深く、そして時にはかなく、温かく感じた一方で、私はところどころ違和感を感じました。
その違和感を掘り下げた際、新しい仮説が生まれましたので順を追ってご説明します。
時代によるものではなく、世代によるものであるという視点
冒頭に記載した通り、この本が出版されているのは1998年。
「近頃の若者の間で用いられる「やさしさ」について〜」と語られますが、
もはや2024年現在から見たら、1998年の若者の傾向はかつての傾向です。
にも関わらず、私は本書を読みながら
「旧来の「やさしさ」は〜、新しい”やさしさ”は〜」の論法、そしてその内容が
そのまま現代にそのままあてはまりそうだと感じました。
これは一体どういうことなのでしょうか?
私の仮説は
「時代の傾向によらず、若者の”やさしさ”と年齢を重ねた人の「やさしさ」が異なる可能性がある」
ということです。
そのうえで、どのように異なるのか?をさらに深ぼってみます。
「察する際の正確性」という可能性
ここまで本書の要約を記載してきましたが、私自身は以下の内容については違和感があります。
冒頭にて、以下のような記述があります。
・第一例目の少女は親から小遣いをもらってあげることを”やさしさ”だと言いますが、親の気持を推しはかろうとはしていません。親は見栄があるから子供に小遣いを与えるのだろう −
そう決めつけているのです。・第二例目の青年も関係したからには相手は結婚してほしいと思っているに決まっていると考えるのが、彼のやさしさでした。
いずれの場合も、当然のことながら、親あるいは婚約者との気持の一体感はありません。
どれをとっても「やさしさ」とはとうてい言えない”やさしさ”ばかりです。
上記事例を「やさしさ=相手の気持ちを察すること」をしていない、新たな”やさしさ”の事例として挙げておりますが、果たして上記事例は「相手の気持ちを察していない」のでしょうか?
個人的には、「相手の気持ちを察しようとはしている」けれど、
相手によっては結果的に「相手の気持ちを察していない」ことにもなりうる状態だと考えます。
もし、
- 旧来の「やさしさ」が相手の気持ちを察することができる
- 新しい”やさしさ”が相手の気持ちを察しようとするが、正確性が低い
として、
そしてそれが
- 世代によって異なる
のであれば、その違いは
- 人と関わる経験の差により、相手の気持ちを察する正確性が異なる為
と言えるのかもしれません。
「世代間の断絶により、互いに相手の気持ちを察することができていない」可能性
もう一点、別の可能性について考えてみたいと思います。
上記でまとめたように、
そもそも「涙歓迎、熱い想いを好む」旧来のホットな「やさしさ」を重視する年を重ねた人々と、
「涙お断り、熱い想いは苦手」な新しいウォームな”やさしさ”を重視する若い人々がいた際、
年を重ねた旧来の「やさしい」人々は、若い人々に対して「やさしく」でき得るのでしょうか?
つまり、旧来の「やさしい」人々は、若い人々の気持ちを察して若い人々の”やさしさ”に寄り添った関わり方をするのでしょうか?
おそらく答えは、否、ではないでしょうか。
もちろん、若い”やさしい”人々は、旧来の人々に対して「やさしい」関わり方もしないでしょう。
とすると、
異なるやさしさを重視する世代間の差があった場合に、相手の気持ちを察すること
=やさしくすること、はお互いにできない
と言えるのではないでしょうか。
察しようとする行為、それ自体をやさしさと呼びたい
二つの可能性を考えたうえで、私なりの考えとしては
結局相手の気持ちとあっていようが、間違っていようが、
「相手の気持ちを察しようとしている」それ自体は
別にやさしさと呼んだっていいのでは?と思うのです。
あっていようがなんだろうが、とりあえず相手の立場になって考えてみようとする。
その意味では、回り回って….ですが
年を重ねた人が求める「やさしさ」と、若い人が求める”やさしさ”
その傾向を理解しようと、本書を読むことは、まさに、
やさしくなる為の一歩であるようにも思えるのです。
是非皆様のご意見もお伺いしたい・・・!
ご興味ある方はご覧ください!